Kyoto(2026)10×10cm
「レコードカバーのようなもの」
現実とフィクションどっちでもない、割と具体的っぽく見えるけど、抽象的な要素の混ざったバランスがずっと好きです。
写真で表現したい形が定まらない時、棚と段ボールのなかのレコードをかけ、自分のなかの何かと一瞬でも交差したら、ひたすら反復していく作業に没入していけます。
結局単純に写真が撮りたい、破って重ねて貼りたい、何か理解できないものをつくりたい、という欲求は無意識をどうやって表現するかに繋がっています。
偶々できてしまった時の驚き、イメージと相反する謎の行為、ほんとその場その場のインプロビゼーションです。現実とフィクションを混ぜて、それ以外の余分なものも結構入ってきたり、ひとつの答えに向かっていかないように一寸工夫が必要です。
今年もあと少し。仕事、終わったんだか終わってないんだか、すでにのんびりしています。大掃除はせず、フィルムをスキャンしたり写真集をコラージュしています。ここ数日、近所のスーパー、薬局はだいぶ混んでいました。
この年末は天下茶屋の二等車で河合止揚氏の個展『中国雲南省昆明留学日記』を観たり、海外旅に出たくても出てないから、鶴橋コリアタウンのオヂェパメンで釜山名物デジクッパ、蒸し豚を食べたり、久々に心斎橋筋の功夫ラーメンで台湾牛肉麺、ルーロー飯を食べたりしてました。あとは西成で撮影(散歩)とリフティング。この夏は風通りのいい道を歩き、冬は日当たりのいい道を歩きます。夏の夜の公園は蒸し暑かったけど、冬だと寒く、寒風の向かい風のボールタッチはつらいのです。すぐ家に引き返したくなります。それでも足を動かしていると段々体が温まってきて、もっと蹴りたくなるから、気分もよくなります。
「自分はこれから何をしたいんだろう」と考えながら、取捨選択をして、時間がかかります。それをしないと、先に進めない気になりますが、何を撮る(つくる)かで、悩むひまがあったら、とりあえず、何かを撮って(つくって)それから悩んだほうがいい。……という言葉がまた浮かびます。
わたしの写真は達成感が全然なくて、今日いいと思ってみても次の日にはよくなかったりとか。なので撮ったことを忘れてしまうくらい寝かせて、時間が経ってあらためて見る方がちょうどいいみたいです。そうして自分が言ってたことと写真の内容がズレてきたら面白くなるぞ、とひらめきました。ズレることによって、そこに新しい何かが立ち現れ、つぎの写真が生まれるから。これからもズラしていく、あり方を採りたいです。今、日本酒で一寸ほろ酔いです。
思い返せば、この一年は一度も病院にお世話にならない体調良好な年でした。今さらながら、健康だと酒と珈琲がうまい、このペースで行きたいです。2025年いろいろありがとうございました。よいお年を。
忘れかけの記憶というか、消えていく夢というか、たとえば被写体をうまく写すことも重要ですが、わたしはずっとそこに在るかのような空気に、反応することの方が大事です。
二眼レフの正方形ファインダーを覗きながら、近くで見ているのに遠い印象、鮮明だけどおぼろげな光景、そういったものを写し撮ることができるなら、それは原型をとどめない程にシャッターを切る多重露光ではないかと繰り返しました。
考えてみると、対象となる傷や錆や罅、黴、擦れ、汚れ、剥げ、染み、凹み、不気味な痕跡、不思議な実在感、ボロい色の隙間と奥行きの空間、虚ろに見えるのも、ある感情が湧きおこり枯れていった、余韻なのかもしれません。
撮影した色々な年代の色々なメーカーのフィルムを、現像のプロセスでモノクロもカラーもネガもポジも全てをいかに混ぜるか、バリエーションが安定しないように、同じ結果にならないように、失敗も含め曖昧なイメージを写真にしたいと単純に思います。
また写真はイメージであって物質でもあります。乾燥したフィルム同士を詰め込んで、漂白し擦って剥がし溶け出し混じり合って浮かび上がる現象は、前後、左右、上下、表もあって裏もあります。それが写真の面白さでデジタルデータに変換しました。
そこには写真をデータ化する過程で、変化する瞬間、変化しつつ凝固したと考えるしかないと、同時にそれは自意識の変化も生じるべきものです。そう簡単に自意識や無意識はコントロールできませんが、そういった意識の変化の上で、また一枚の写真に向きあう時、確かにリアルに在ったあの空気が、何か、幻を見せられているようで、そわそわします。
森川健人
11日(火)から東京・日本橋茅場町のレクトヴァーソギャラリーにて。お近くにお越しの際は、ぜひご高覧ください。
【展示内容/インクジェットプリント、カラー】